門司ミッドエア

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大里~街の記憶~

第3回 参勤交代と大里宿

JR門司駅の北口前にサッポロビール工場跡である赤煉瓦建築が残っています。現在は赤煉瓦プレイスとして市民の方にも開放されている、その施設に沿う1本の路地があります。現在の国道199号線とJR鹿児島本線に挟まれるように平行に伸びる細い路地、それが旧長崎街道の跡なのだそうです。
寛永12年(1635年)の武家諸法度によって参勤交代が始まると、九州の諸大名が、本州に渡る船を待つため、そのときに宿をとったのが大里宿でした。大名行列というくらいの大掛かりな大移動、江戸に向かう九州最後の宿が海峡を目の前にした大里の地だったのです。
九州の街道の起点、そして終点として、大里宿は発展し、近代へと時代を移していくのです。現在は、街道跡に沿って本陣跡や番所跡の石碑が残されています。

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大里宿跡
寛永12年(1635年)の武家諸法度によって参勤交代が始まると、九州の諸大名はこの地に宿をとり、海峡を渡ったそうです。大里宿は長崎街道に沿った直線約600メートル程の町並みで、ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建ち並んでいました。

御番所跡
本土との渡海口に当たりここの在番役人は舟の出入り、人馬の切手改め、荷抜けの取り締まりを行っていました。当時、御番所はこの碑のある海側にありました。

本陣重松彦之丞の屋敷跡・人馬継所跡
この他にもこの大里宿跡には、革命により全国の測量を行った伊能忠敬が止宿した本陣重松彦之丞の屋敷跡、参勤交代の大名に人足や馬を提供する人馬継所跡などの碑が設けられています。

住吉神社
江戸時代中期、海上鎮護異国船追討の祈願成就を奉謝して小倉藩二代藩主忠雄公が建立。現在は海岸沿いに移設されています。

西生寺
小倉藩細川家時代のお茶屋敷浜御殿があった場所で、境内には当時の、茶の湯の井戸が残っています。


乗馬石
旧街道沿いに当時を偲ばせるような家が残っています。この家の前に並ぶ石が、乗馬石といって馬に乗る時の足をかけるための石だそうです。

本陣跡
大里宿の中でも大名たちが宿泊した宿(本陣)があった場所です。街道の風情が残されている一画にあります。

第2回 大里は内裏

大里の歴史の中で、大きな足跡を残しているのが1183年のこと。 まさに源平合戦のころの話です。
昔は「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていたこの地に、安徳天皇を伴った平家一行が「柳の御所」を設けて滞在したそうです。 その後、平家軍は源義経の軍に敗れてしまうのですが、その御所を設けたことでこの地を「内裏」と呼ぶようになったとか。
現在 の「大里」と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからだと言われています。
関門海峡に面したこの地は、最も本州に近い場所の 1つであり、海峡を渡る港として利用されてきました。海峡を渡る大名や旅人の宿場町に発展していくことになるのです。

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柳の御所
源氏に追われた平家一門が安徳天皇と共に逃れてきた地が豊前国の柳ケ浦。それが現在の大里の街。天皇がしばらくの間、身をあずけた仮の御所を「内裏」と呼んだことから、大里の地名が生まれたそうです。当時の仮の御所の跡が、現在の御所神社です。門司の商店街である「みずき通り」からすぐの場所にあります。

風呂の井戸
安徳天皇を始め、平家の一門が旅の疲れを癒すため、その水を風呂の用水にしたと言われている井戸です。

第1回 門司について

「門司」の地名は「門を司る(カドをツカサドル)」に由来するそうです。
九州の門(カド)にあって海峡の管理を司る(ツカサドル)ことから来ているとか。
奈良時代の瓦には、すでにそう書かれたいたというので、いにしえの防人たちにそう呼ばれていたのでしょうか。このように古くから本州と九州を結ぶ交通の要だった門司は、大宰府政庁が置かれたことで、さらに重要性が増したと考えられます。
太宰府から都を結ぶ道は太宰府官道(大路)と呼ばれ、門司を通って本州へと続いていたのです。
歴史的なロマンがありますね。