大里~街の記憶~
第3回 参勤交代と大里宿
JR門司駅の北口前にサッポロビール工場跡である赤煉瓦建築が残っています。現在は赤煉瓦プレイスとして市民の方にも開放されている、その施設に沿う1本の路地があります。現在の国道199号線とJR鹿児島本線に挟まれるように平行に伸びる細い路地、それが旧長崎街道の跡なのだそうです。
寛永12年(1635年)の武家諸法度によって参勤交代が始まると、九州の諸大名が、本州に渡る船を待つため、そのときに宿をとったのが大里宿でした。大名行列というくらいの大掛かりな大移動、江戸に向かう九州最後の宿が海峡を目の前にした大里の地だったのです。
九州の街道の起点、そして終点として、大里宿は発展し、近代へと時代を移していくのです。現在は、街道跡に沿って本陣跡や番所跡の石碑が残されています。
▼画像をクリックすると拡大表示します。
第2回 大里は内裏
大里の歴史の中で、大きな足跡を残しているのが1183年のこと。
まさに源平合戦のころの話です。
昔は「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていたこの地に、安徳天皇を伴った平家一行が「柳の御所」を設けて滞在したそうです。
その後、平家軍は源義経の軍に敗れてしまうのですが、その御所を設けたことでこの地を「内裏」と呼ぶようになったとか。
現在 の「大里」と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからだと言われています。
関門海峡に面したこの地は、最も本州に近い場所の 1つであり、海峡を渡る港として利用されてきました。海峡を渡る大名や旅人の宿場町に発展していくことになるのです。
▼画像をクリックすると拡大表示します。
第1回 門司について
「門司」の地名は「門を司る(カドをツカサドル)」に由来するそうです。
九州の門(カド)にあって海峡の管理を司る(ツカサドル)ことから来ているとか。
奈良時代の瓦には、すでにそう書かれたいたというので、いにしえの防人たちにそう呼ばれていたのでしょうか。このように古くから本州と九州を結ぶ交通の要だった門司は、大宰府政庁が置かれたことで、さらに重要性が増したと考えられます。
太宰府から都を結ぶ道は太宰府官道(大路)と呼ばれ、門司を通って本州へと続いていたのです。
歴史的なロマンがありますね。











